塩の道 義塩 信玄・謙信の戦い

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「義塩」 : 「争うべきは弓箭(ゆみや)にあり、米・塩にあらず」

 この故事は、「塩の道」に由来しているといわれている。真偽についての諸説はあるが、
戦国時代、甲斐の武田信玄が、隣国である、駿州の今川氏 相州の北条氏と敵対した
時期、今川・北条が甲斐地方への塩の輸出を禁じ、「
南塩」といわれる ルートが途絶え、
ただでさえ食塩の少ない山国の松本の民は非常な塩不足に苦しんだ。
 一方、川中島にて 5回の戦いを演じた 越後の上杉謙信は「争うべきは弓箭(ゆみや)
にあり、米・塩にあらず」として、「信州の民百姓は すすんで糸魚川の浜塩「
北塩」を取り
にくるように」と命じたという。以来 信州より 浜塩を買いに行くようになったため、根知川
入りの「山口」と虫川入りの「虫川」に関所を作ったとされている。

 ---- 塩市(飴市) ----  松本、豊科、池田、大町などで、正月から二月にかけて行わ
れる年中行事。「市大神」をまつり、「義塩」に由来しているともいわれる。
 謙信の「北塩」を積んだ牛が千国街道を通って 深志(現松本)に着いたのが、永禄11年
(1568)1月11日であったといわれる。
 



平倉山の合戦


  地団駄からの平倉城址
    (上杉の援軍はここで落城を確認した)
 戦国時代、甲斐を治めていた武田信玄と、越後を
治めていた上杉謙信。北信濃の奪回と越後の防衛
をもくろむ上杉軍とそれを阻止し越後を攻めようとす
る武田軍の争いが始まる。
 天正22年(1553年)第1回を皮切りに、
川中島の
戦い
と呼ばれる川中島を舞台にした北信濃をめぐる
合戦は数えること5回、12年余りに及んだ。第3回目
の、川中島の戦いはこの地 小谷に飛び火した。
 武田軍は、川中島方面への上杉方の補給路になっ
ていた小谷地方攻略を狙っていた。 弘治2年(1556
年)まず白馬村飯森の一夜城に陣をとっていた上杉
方の飯森十郎盛春へ、武田の重臣、山県昌景の軍が
攻撃をかける。これに敗れた盛春はいったん越後に
逃れ謙信に頼った。その後小谷まで戻り、中土の平倉
山に城(小谷城)を構える。盛春は、小谷での援軍を
小谷五人衆に求めた。

 このころ小谷で勢力を持っていたのが「小谷五人衆」
と呼ばれる、太田土佐、田原主馬、山田左近、細野織
部、山岸豊後の5人。だがすでに武田方に通じていた
4人は承知せず、求めに応じたのは最も越後に関係の
深い山岸豊後だけだった。盛春は最も強硬な反対者、
田原主馬を殺してほかの3人も服従させようと企てた。
しかしこれを知った主馬は、山県昌景に告げる。昌景は
直ちに平倉城を攻めた。しかし時は冬、あまりの積雪の
深さに攻めあぐねいったんは退去した。
 弘治3年(1557年)春、武田軍は、雪どけを待って再
び行動を起こす。この城は兵表糧や水に恵まれず、白
米を馬の背にかけ洗っているように見せ水の豊富さを敵
にしめそうとしたという。
 しかし、城兵の奮戦空しく盛春の軍は敗れ、同年7月
5日に落城。城主、飯森十郎盛春も討死した。

  平倉城址

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